ー 西行は2度平泉を訪れた ー
奥州藤原氏の時代、みちのくは、いまだ「奥の知れぬ未知の国」でした。歌に詠まれて有名になった地名や名所を歌枕と呼びますが、みちのくには歌枕が都周辺についで多くありました。
俳聖、松尾芭蕉は「おくのほそ道」で「能図法師、西行上人の踵(きびす)の痛みも思ひ知らん」と記しています。踵の痛みに心の痛みを重ね、歌の心を追体験するため、歌枕の地を巡礼したいと言う意味です。
芭蕉は西行を敬愛していました。その西行は生涯に2度、平泉を訪ねています。 岩手県平泉町
西行が京都に生まれたのは、1118年です。
出家する以前の俗名を佐藤義清(のりきよ)といいました。佐藤家は代々、検非違使(けびいし)などを勤める武門の家であり、義清も20歳で烏羽院の北面の武士となったが、23歳の年、すでに妻子がありながら突如として出家しました。歌人として俗世を離れて生きるためか、友の急死に無常を感じたからか・・・。
西行が最初に平泉を訪れたのは、出家したばかりの若き日です。20代後半の頃と推測されます。当時、出家した者にとって旅は修行そのものであり、また能図法師や藤原実方が訪れた東国の歌枕を巡ることが、旅の主な目的であったと思われます。
かくして西行は、旧暦の10月12日、平泉へ辿り着きました。
現在の12月初旬にあたります。
取り分きて心も凍みて冴(さ)えぞ渡る
衣河見に来たる今日(けふ)しも
雪が降り風の激しい日に、なぜ、衣川を見に行ったのでしょうか。また、初回の旅か、2度目の旅で詠まれた歌なのかはっきりしませんが、
ききもせずたはしね山の桜花
吉野の外にかかるべしとは
束稲山の桜を見て、奈良の吉野山以外にこれほど桜の見事な山があろうとは思いもよらなかったと驚嘆しています。西行は桜の歌を多く詠み、吉野の桜は吉野山中に草庵を結んだほど愛していました。束稲山の桜は西行にとって吉野山に匹敵するほど素晴らしかったのでしょう。
現在の束稲山には、桜はさほど目立たないが、かつては安倍頼時の時代に桜を一万本植えたと言われる桜の名所でした。
おそらく西行は桜だけではなく、平泉の都市そのものにも目を見張ったに 中尊寺 金色堂違いありません。
平泉の栄華は都でも語り草になっていたはずです。この平泉では、吉野山ほど素晴らしい桜はないと言っていたところに匹敵する春の束稲山の桜を北上川の景色、そして平泉という都市に対して漂白の歌人西行は、2度も訪問したと言われています。2度目の訪問も晩年69歳のとき。奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされた翌年、西行は73歳で生涯を閉じました。