<原文>
近き頃名人と称し、公より紫調賜はりし新九郎こと、権九郎と言ひし頃、日々鼓を出精しけれどもいまだ心に落ちざる折から、年久しく召し使ひし老女朝々茶など持ち来たりて権九郎へ給仕しけるが、ある時申しけるは、主人の鼓もはなはだ上達の由申しければ、権九郎もをかしきことに思ひて、女のこと常に鼓は聞けど手馴れしことにもあらず、我が職分の上達を知るわけを尋ね笑ひければ、老女答へて、我乱舞のこと知るべきやうなし。しかしながら親新九郎鼓を数年聞きけるに、朝々煎ける茶釜へ音ごとに響き聞こえ侍る。これまで権九郎鼓はそのことこれなきところ、この四、五日は鼓の音ごとに茶釜へ響きけるゆゑ、さてこそ上達を知り侍ると答へけるとなり。年久しく耳馴るれば自然と微妙に、よし悪しも分かるものと、権九郎も感じけるとなり。
*現在、多くの「新耳袋」が出版されている
<現代語訳>
近頃名人と言われ、幕府から紫調をいただいた新九郎が、まだ権九郎と名のっていた頃、日々鼓の稽古に励んでいたが、まだ自分で満足できる音が出せないでいた折、長年召し使っていた老女が毎朝茶などを持ってきて権九郎に給仕していたが、ある時(その老女が)申すことには、権九郎の鼓がとても上達したということを申したので、権九郎はおかしなことと思って、お前はいつも鼓は聞いているけれども実際に打って稽古したわけでもない、(それなのに)わたしの鼓の技が上達したことがわかったのはなぜかと、そのわけを尋ね笑ったところ、老女は答えて、「私は能のことはわかるはずもありません。けれども、(あなた様の)親である、前の代の新九郎の鼓を数年聞きましたが、毎朝、お湯をわかす茶釜に音がみんな響いて聞こえていました。これまで権九郎の鼓はそのようなことはありませんでしたが、この四、五日は鼓の音がみんな茶釜へ響きましたので、そこで上達したことを知ったのです。」と答えたということである。長年聞いて耳が馴れると自然と微妙に、鼓の音のよし悪しがわかるのだなあと、権九郎も感じ入ったという。
横井の総評
長年にわたって見たり聞いたりしていると自然に物のよし悪しがわかってくるという例えです。これはいろいろな物事について言える教訓として古典は教えてくれています。