橘 南谿

東西遊記


<原文>
  昔、山越の里に老人ありけるが、年ごとに老いて、そのうへ、いみじう重き病に臥し、頼み少なくなりけるに、ただ、この谷の桜に先立ちて、花をも見ずして死なんことのみを嘆きて、「いまひとたび花を見て死なば、うき世に思ひ残すこともあらじ」など、せちに聞こえければその子悲しみ嘆きて、この桜の木の下に行きて、「なにとぞ、わが父の死にたまはざる前に花を咲かせたまはれ」と心をつくして天地に祈り願ひけるに、その孝心、鬼神も感じたまひけん。一夜の間に花咲き乱れ、あたかも三月の頃のごとくなりける。この祈りける日、正月十六日なりけるとぞ。

桜



<現代語訳>
 昔、山越の里に老人がいたが、年ごとに老いていき、その上、たいへん重い病のために床に臥し、病気が治る見込みがなくなった時に、(老人は)ただ、この谷の桜よりも先立って、桜の花を見ないで死ぬことだけを嘆いて、「いま一度桜の花を見て死んだなら、この世に思い残すことはあるまい」などと、ひたすら言うので、(老人の)子供は悲しみ嘆いて、この桜の木の下に行って、「どうかわが父の亡くならないうちに花をお咲かせください」と心をこめて天地に祈って願ったところ、その子供の親孝行な心に、鬼神も感心なさったのだろうか。一夜のうちに桜の花が咲き乱れ、まるで三月の頃のようになった。この(子供が)祈った日は、正月十六日だったという。

横井の総評

 昔から、日本人にとっての「桜」という花への特別な思いが感じられる逸話です。死を目前にして「ひとたび桜の花を見れたならば、この世に思い残すことがない」と。
 古典では、花は桜か梅のどちらかを指すぐらい、一年に一度、二週間から三週間ぐらい風景を美しくさせる桜への日本人の愛情が感じられる話です。